1/12 Schuco – Shelby Cobra 427 S/C
京商 1/12 に比べ、なんとも締まりがない印象。愛せない一台への愛着を深めるべく、カスタム(コンバージョン)してしまおうか!そう、日本のコブラ第1号車「式場コブラ」に!!
式場コブラ
日本のコブラの歴史の中で気になる一台があります。1960年代初頭の日本に、コブラ第1号車として輸入された、いわゆる「式場コブラ」です。私は後年、当時撮られた写真をカー雑誌で目にすることがあって、あの時代の日本に、コブラを、それも427を輸入するようなお大尽がいたんだ~と感心したものの、その詳細は知る由もありませんでした。
そのコブラについて、何人かの方が語られておりますので、抜粋して詳細を考察していきたいと思います。
以上の情報をすり合わせると、三保氏のオーダーしたコブラの輸入は第3回日本GPまでに間に合わなかった、その時点で三保氏はレース出走もコブラ購入もキャンセルした。そして、遅れて入ってきたコブラは、三保氏の代わりに式場氏によって購入された、ということでしょうか?
ここでもう一つの謎があります。
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●第1号車のボディカラーは、アイボリーとのこと(私はアイボリー時代の画像を見たことはありません) ●麹町わたびき自動車の「中沖満」氏は、自著「力道山のロールスロイス」において、2代目Y氏のオーダーにより自分の手によって、アイボリーからグリーンに塗り替えたというエピソードを書かれています。 ●3代目I氏がボンネットにエアインテーク・バルジを取り付け、4代目M氏において、ボディカラーがグリーンから定番のホワイト・ストライプ入りガーズマンブルーにリペイントされ、現在に至っています。
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中沖氏の著書で事の経緯が詳細に記述されている以上、2代目オーナーY氏がアイボリーをグリーンに塗り替えたことは、動かしがたい事実でありますが、一連の残された画像を見るに、式場氏所有の時期にすでにグリーンとなっており、釈然としません。
RACING MATE
1965(昭和40)年頃、「式場壮吉」氏、「石津祐介」氏、「杉江博愛」氏(徳大寺有恒)の3人は、それまで日本に無かった本格的なカー・アクセサリー・ブランド「レーシングメイト」をに立ち上げています。(レーシングメイトの命は短く、1969(昭和44)年に倒産してしまいます)


文京区千石のレーシングメイト本社前で撮影された式場コブラ。ボディカラーはグリーン。

当時の東京オートサロン(おそらく)に展示された式場コブラ。レーシングメイトのエンブレムを掲げています。

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https://www.webcg.net/articles/-/31851
沼:(略)中でも強く印象に残っているのが60年代の洋行話。巨匠は当時、ナマでルマンやインディ500を見てるんだよね。フェラーリとフォードの激突とか、トップを快走していたタービンカーがゴールまであとわずかというところでリタイアしたシーンとかを。 沼:(略)なにせ式場壮吉さんとシェルビー・アメリカンを訪ねていったら、ちょうどルマン出走の準備をしていたボスのキャロル・シェルビーから「キミたちもルマンに来るか? 来るんならパスを出してやるぞ」と言われて、行っちゃったというんだから。 松:しかもルマン観戦の後にキャロル・シェルビーの計らいで、パリ郊外で「フォードGT40」のロードバージョンに試乗させてもらったという、すごいオマケ付き。
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コブラ 427 ストリート (CSX3259)
ケルシー・ヘイズ・サンバーストホイール

ハリブランド製「コブラ II」ホイールの供給不足が生じると、ピート・ブロックは新たなホイールをデザインし、ケルシー・ヘイズ社に生産を依頼しました。
ホイール中心から放射状に伸びる10本のスポークを太陽光線に見立て、そのホイールはサンバーストと命名されました。
428ポリスインターセプターエンジンを積むコブラのストリート仕様149台のうち、146台がサンバーストホイールを装着していました。
サンバーストホイールを装着する最初のコブラは、「CSX 3101」から始まる公道用シャーシの10台目「CSX3110」でした。
当初はフロント7.5インチ、リア9.5インチ幅の採用が計画されましたが、9.5インチ幅の生産は実現せず、リアにも 7.5 インチが装着されています。





2本出しマフラーはいつ装着されたのか



コブラの生産台数
生産台数については諸説あります

日本上陸2台目のコブラはデイトナクーペだった



1966(昭和41)年の第3回日本GPに、427コブラ・ロードスタはやって来ませんでしたが、289コブラ・デイトナクーペ(CSX2300)の参戦があったのです!(決勝46周でリタイア)

デイトナクーペのドライバー(兼オーナー)は「酒井正」氏。
まもなく、そのデイトナクーペは「明珍和夫」氏の手に渡り、最後のレースを第5回日本グランプリ(1968(昭和43)年)で終えています(決勝11位)

明珍氏は、レース用289エンジン(4速MT)を公道用の302エンジン(3速AT)に積み替え、品川ナンバーを取って公道を走らせておりました。

その後、そのデイトナクーペはトミタオートの在庫車となり、京都ナンバーを付けた写真が残っています。

最終的に、CSX2300はシェルビーに買い戻され、しばらくシェルビー自身が所有していましたが、2000年8月19日、RMオークションズに出品され、440万ドル(4億8400万円)で落札されています。(現在はその倍の価値があるとか)










