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お手付きモデルズ

These kits are a personal collection, not articles for sale.
Now, I have 534 plastic model kits.

1/24 Revell/Monogram – Baldwin-Motion Drag Cobra

モーション・パフォーマンス

1950年代後半、「ジョエル・ローゼン」(Joel Rosen)は高校を卒業すると空軍に入隊し、テキサス州のシェパード空軍基地でメカニックのスキルを磨いた。

空軍の予備役となったローゼンは、ニューヨーク州ブルックリン、フォート・アパッチにある小さなスノコ・サービスステーションを経営する傍ら、自らの車や顧客の車をチューンしてはレースに出るようになっていた。

当時ローゼンは、CDI(Capacitive Discharge Ignition)ユニットの先駆けともいえる製品を、自分の車や顧客の車に取り付けていた。ある夜、ロングアイランドのドラッグレースに1963年式コルベットで出た際、そのCDIユニットの宣伝として、製造会社の名前「モーション」を、靴墨でフロントフェンダーに書きこんだ。ローゼンが優勝すると、ローゼンの車は「モーション・コルベット」として知られるようになった。モーション・パフォーマンスは、そこから始まった。

1963年、クレイトン社製ダイノ・シャーシダイナモを導入する。彼は、チューニングのためにシャーシダイナモを使用した最初の一人であった。

1965年から1966年にかけ、スモールブロックの「ドラッギン・スネーク」とビッグブロックの「キングコブラ」でドラッグレース活動を精力的に行っている。

事はローゼンが、当時の顧客でニューヨークにおけるトップクラスのディスクジョッキーだったボブ・デイトンから、彼の4,000マイルほどしか走っていない、ほとんど新車といっていい1964年式289コブラを4,000ドルで譲りうけたことから始まった。

モーション・パフォーマンスのコブラは、すぐにその速さで知られるようになり、427コブラは289コブラの活躍を見てチューンを依頼してきた顧客の車であった。

ボールドウィン-モーション

ローゼンのコブラへの関わりは、シボレーが1966年後半、新たにカマロを発表したことで薄れ始める。その頃、ローゼンは、モーション・パフォーマンスを法人化し、ニューヨーク州ボールドウィンに移転させた。以後、シボレーのビッグブロックのチューニングに集中することになる。

シボレー製ポニーカーの代表「カマロ」

アメリカを代表するスポーツカー「コルベット」(マコ・シャーク・ボディキット装着車)

コルベットのエンジンを積むイタリアンスーパーカー「イソ・グリフォ」

ちなみに右から3台目は、フォード製428エンジンを積む「AC 428」。イソ・グリフォ並みにレアカー。

近所には、小規模ながら1920年代初頭から続く老舗のシボレー・ディーラー、「ボールドウィン・オートカンパニー」が存在した。そのディーラーのパーツマネージャーは、ドラッグレース仲間の「ジョン・マーラー」であった。

その縁で、ボールドウィン・オートカンパニーとモーション・パフォーマンスはパートナーシップを結ぶに至り、お互いを補完し合うことで、提携は大成功を収めた。

「ボールドウィン-モーション」は、現在、伝説的な名前となっている。マッスルカー時代の、「イェンコ」、「ニッキー」、「グランド・スポルディング・ダッジ」、「ロイヤル・ポンティアック」といったディーラー系カスタムカーの中でも、まったく別次元のスーパーカーであった。

ボールドウィン-モーション初の広告

The FANTASTIC FIVE

返金保証のスーパーカー

ローゼンは、シボレーのビッグブロックに、公称425馬力ないし435馬力の「SS」および公称500馬力の「フェイズIII」のチューニングステージを用意した。

ローゼンは、ボールドウィン-モーションのコンプリートカーは、ストリートで使用できる信頼性の高いマシンでありながら、SS1/4マイルを11.50秒 / 120 mphで走り抜けることを保証し、そうでなければ返金すると宣言した。後にローゼンは、一度も返金を求められることはなかった、と述べている。

ボルドウィン モーション コルベット フェイズIII GT

1969年にリリースされた「コルベット フェイズIII GT」は、ベースモデルの2倍以上のコストとなるチューニングプログラムが施された。わずか10台しか製造されなかった「コルベット フェイズIII GT」は、オーダーメイドゆえ、すべて細部の仕様が異なっていた。

1967年から始まったボールドウィン・シボレーとの提携は1974年に終わる。70年代はパフォーマンスカーにとって厳しい冬の時代となったのだが、ボルドウィン-モーションの息の根を完全に止めたのは、連邦政府であった。

ローゼンは、DOTとEPAの規制を満たしていない改造車を作った罪で、500ドルの罰金を科された上、今後、ローゼンの改造車は、「輸出専用」あるいは、国内向けは「オフロードでの使用」のみが許されるとの決定を下されたのである。

モーション・ミニカー・コーポレーション

1970年、デトロイトから発表された新型車は、相変わらずパフォーマンス一辺倒のマッスルカーで購買意欲を刺激し続けていた。実際、ボルドーウィン-モーションにとって、記録的な年となった。しかし、ローゼンは、この馬力戦争がいつまで続くのか、真剣に疑問に思っていた。 この年、ジョエル・ローゼンは、「モーション・ミニカー・コーポレーション」を設立し、ミニカー・シーンに参入を開始している。

モーション・ミニカーは、過激にカスタムされたサンダーバグで脚光を浴びた。1971年に発表されたフェイズIII Vダブには、2.2リッター150馬力のエンジンが積まれていた。

1972年、サンダーバグは、さらに過激なって登場した。ドラッグレース用スチールチューブラーフレームには、2.2リッター245馬力のエンジンが積まれ、FRP製ボディがファスナー留めされていた。その車高は、地上からわずか47インチ(119cm)しかなかった。

この黄色いバグは、1972年と1973年のNHRA H/Gクラスを完全に支配した。

サンダーバグのチューンはさらに進み、翌1974年には、ポルシェ911タイプのFRPボディを被るようになったが、度を越した速さがレースをつまらなくすると判断したNHRAは、レギュレーションを改編し、サンダーバグをレースから締め出した。

ビジネスの停滞から1975年春、モーション・ミニカーは閉鎖された。

コブラ・ドラゴンスネーク

フォードがドラッグレースには興味を示さなかったため、キャロル・シェルビーもドラッグレースに興味を示すことはなかった。しかし、シェルビー・アメリカンの従業員の有志らが、ドラッグバージョンのコブラを作りたい旨を願い出ると、意外にも、その許可が出ることになった。

CSX2019

プロジェクトには6,000ドルの予算が付けられ、ベース車両には、映画撮影のためにMGMにレンタルされていて、ちょうど戻ってきていた「CSX2019」があてがわれた。(車台番号で分かる通り、その車は260エンジンを積む初期モデルであった)

業務時間外のプロジェクトとされたため、主たるメンバーは「ランディ・ショー」、「トニー・ストアー」、「ジェレ・カークパトリック」の3人に絞られた。

コブラは、ドラッグレースでも、すぐに成功を収めた。

1963年秋、トニー・ストアーのドライビングでライオンズ・ドラッグストリップの初陣を優勝で飾ると、1963年シーズンが終わる頃には、AHRAのFS/SPクラスにおいて、12秒81(108.95 mph)のレコードホルダーとなっていた。

CSX2357

1964年の春、2号車として、生産ラインから「CSX2357」が提供されると、CSX2019は5,000ドルで売却されてしまった。(プライベーターの手に渡ったCSX2019は、さらに3年間ドラッグレースに参戦している)

CSX2357のリアクォーターパネルには、社内ペインターの「トゥイーティー」(Tweety)の手によって、タイヤを履いたコブラのキャラクターが描かれた。ドラゴンスネーク誕生の瞬間であった。

トニーは、コブラが出られるレースがあれば、片っ端から参戦していた。そんな彼に徴兵通知が届いた。トニーのシェルビー・アメリカンでのキャリアはそこで終わった。

ドラゴンズネークのドライビングはジェレが受け継いだ。ジェレは、シャーシのメンテナンスも担当した。

CSX2357はAHRA (American Hod Rod Association) とNHRA (National Hod Rod Association) のA/SPクラスを支配し、クォーターマイルで、11秒81(116.27 mph)を記録するまでになった。

プライベーターのドラゴンスネーク

ドラゴンスネークは、シェルビー・アメリカンの工場で生産されたワークスマシンン2台とカスタマカー3台の計5台と、シェルビー・アメリカンが供給したキットパーツを使って組まれた3台の計8台が存在するという。

CSX2109

CSX2248

CSX2427

スモールブロックには、エンジンチューンの度合いによって、4種類のステージ・・・ステージ1(271HP)、ステージ2(300HP)、ステージ3(325HP)が用意されていた。(380HPのステージ4も存在したが、レギュレーションから、出場できるレースがごく限られたため、「真の」オプションといえるものであった)

CSX2427は、シェルビー・アメリカンの工場で生産された5台のドラゴンスネークのうち、ステージ3のチューンが施された唯一の個体である。

CSX2093

ジム・コスティローが走行距離5,000マイルの中古車として売りに出されたコブラを5,600ドルで購入、1年ほどヒルクライムとロードレースで使用した後、6,000ドルするステージ3パッケージを投入した。

このコブラは、1964年から1968年まで活動し、数多くの勝ち星を挙げ、ドラッグレース史上最も勝利したコブラと言われている。

1966年以降のオーナーは、エド・ヘドリックに代わっている。

CSX3198

427エンジンを搭載する唯一のドラゴンスネーク。

CSX2XXX ドラッギン・スネーク

ブルックリンのガソリンスタンドに併設されていた時代のモーション・パフォーマンスは、シェルビーのオープンアカウント・ディーラーであったため(幸いにも、小さなガソリンスタンドが正体であることは、シェルビーには知られていなかった)、ジョエル・ローゼンは、シェルビーのキットパーツを使って自身の289コブラのチューニングを行っている。

そうして生まれた「ドラッギン・スネーク」が、8台(コンプリートカー5台、キットカー3台)のドラゴンスネークのうちの1台にあたるのだが、現在の行方は知れず、その車台番号も忘れ去られてしまっている。オーナーだったローゼンをして、「どこに行ってしまったのか、もう一度会ってみたい」と言わしめている。

モーション・キングコブラ

1966年7月1日、「クレム・ホッペ」(Clem Hoppe)は、ニューヨーク州ホワイトプレーンズのラーセン・フォードで、黒いコブラの新車(CSX3159)を購入した。

ジョエル・ローゼン:「ある日曜日、ニュージャージー州のアイランド・ドラッグウェイで自分の289コブラを走らせていたとき、ピットでホッペと隣り合わせになった。ホッペは、新車の黒い427コブラに乗っていたが、チューニングされた396シェベルほどは速く走れていなかった。 彼は不満そうだった」

クレム・ホッペ:「アタリが出ていなかった私のコブラの最高タイムは14秒台で、アイランド・ドラッグウェイで、ジョエル・ローゼンのコブラの走りを見たとき、私はローゼンにすべてを委ねてみようと思ったんだ。」

ローゼンは、自身の289コブラの改造には、シェルビー・アメリカンが用意したドラゴンスネーク・パッケージを使ったが、427コブラに関しては全て内部で行った。

モーションのカラーリングが施されたホッペのコブラは、キングコブラと命名された。540馬力のキングコブラは、SS 1/4マイル最初の記録は11秒90で、公道走行も可能であった。

ローゼンは、ロングアイランドのイスリップ・スピードウェイで自分のコブラを大破させてしまうと、車両を売却してしまった。以後、ホッペのキングコブラのチューニングとドライビングに専念することに決めた。

1967年、ホッペのキングコブラは、ATCOドラッグウェイで、それまでのSS 1/4マイルのNHRAレコード11秒40を破る10秒64の新記録を樹立した。

ローゼン:「当時のパートナー、ジャック・ガイゼルマンと私は、サーキットまで3時間以上かけてキングコブラを走らせた。サーキットに着くと、プラグとタイヤを交換して、何回か試走した後、10秒67のAA/SPレコードを出した。そして、ストリート用のプラグとタイヤに戻して、ショップに戻ったんだ。耳が聞こえなくなりそうになったことと、背中が痛くなったことを除けば、楽勝だったよ」

1969年、クレム・ホッペと彼のキングコブラは、突如姿を消した。トランクに荷物を積んだままのホッペのメルセデスが、JFK空港の駐車場に放置されているのが発見されたが、本人も彼のコブラも見つからなかった。(後に、コブラだけは、両親が納屋に保管していたことが判明した)

1970年代初頭、ホッペの家族は、ペンシルベニア州リームズタウンのカール・メンツに約6,000ドルでコブラを売却した。この時、コブラには428エンジンが搭載されていた。メンツは、レストアが必要なことを承知の上で安く購入することができた。(427コブラの新車価格は約7,500ドル。現代の約70,000ドルに相当)

1977年のシェルビー・アメリカン・オートモービル・クラブ(SAAC)のイベントで、メンツはレストアしたCSX3159を展示した。ストリート仕様に戻されたCSX3159は、ガードマン・ブルーに塗り替えられ、純正エキゾーストが装着されていた。ただしエンジンだけは、428から本来あるべき427ミディアムライザーに戻されていた。

1981年、メンツはCSX3159をペンシルベニア州ヨークのチャールズ・ハッシュ医師に55,000ドルで売却した。

1994年にCSX3159が市場に出たとき、ペンシルベニア州ハノーバーのレストアラー、トニー・コノーバーは、それがキングコブラであることに気づき、約26万5,000ドルで手に入れた。CSX3159は、レーシングギアの欠落を除けば、「驚くほどオリジナルで完全な状態」だった。コノーバーは、CSX3159を1967年当時のキングコブラに戻すことに成功した。

2005年1月、キングコブラはアリゾナ州スコッツデールで行われたオークションに出品され、レン・パーハムが、52万5,000ドルで落札した。

キングコブラの現在の所有者は、希少なマッスルカーのコレクターとして知られるアーウィン・クロイツである。彼は、キングコブラを手放す予定はないと述べている。

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