この9月、USで封切りするユニバーサル映画、Rush(ロン・ハワード監督)のご紹介。

 レースを舞台にしたハリウッド映画で、後世に語り継がれる作品はいくつかありますが、この映画はその殿堂に列せられる可能性は高いのではないかという下馬評を見聞きする次第です。(当方、未見。日本公開は2014年2月だそうです)

 舞台は1976年のF1グランプリ。ニキ・ラウダ(フェラーリ)とジェームス・ハント(マクラーレン)のチャンピオン争いが映画の主題です。この年のチャンピオン争いは最終戦までもつれ込み、わずか1ポイント差でハントがタイトルを勝ち獲るという劇的な終結となります。まあ、それだけではよくあるライバル話なのですが、ドラマ以上にドラマチックな出来事が起きたのです・・・

 シーズン半ばのニュルブルクリンク(独)で、大クラッシュを起こしたラウダは、燃え盛るマシンの中に閉じ込められてしまいます。九死に一生を得た状態で助け出されたラウダは、全身火傷で生死の間をさまようことになるも、事故よりわずか42日後、2戦のみを欠場しただけで、レース復活を果たすのです。この不死鳥ラウダのエピソードが、映画のメインにおかれるのは間違いないでしょう。

 さらに、この年の最終戦は、FISCOで行われた『F1世界選手権・イン・ジャパン』であります。(日本グランプリの名称は権利関係で使用できず)まだまだF1グランプリが遠い国での出来事だった日本人にとっても、印象深い年でありました。

ニキ・ラウダを演じるのは、ドイツ人俳優、ダニエル・ブリュール(Daniel Bruhl)。

 

 ジェームス・ハントを演じるのは、オーストラリア人のクリス・ヘムズワース(Chris Hemsworth)。

 2人とも本人の雰囲気を良く表現しています。理論的で冷静沈着なラウダ、感覚的で自由奔放なハント、と好対照をなす2人は、意外にも、実生活では親しい友人でありました。

 当時の雰囲気の再現に重要となるチーム・スタッフの衣装なんかの小道具も目を見張るほどの再現度!

 さてここで1976シーズンを駆け足で再確認してみましょう。

 1975年、フェラーリ312Tで、自身初のF1チャンプとなったラウダは、翌76年も第9戦(全16戦)のブランズハッチ(英)まで優勝5回と、シリーズを席巻します。

 上で書いた通り、状況が一変したのは、第10戦ドイツGPでラウダが事故を起こした以降。常にラウダを射程内に収めていたハントが台頭し、優勝回数では計6回とラウダを上回るようになったものの、ポイント的には1位のラウダに3ポイント差の2位という状況で最終戦になだれ込みます。

 最終戦、雨のFISCOを危険とみなしたラウダは、自分の意思でレースを放棄、一方、ハントは、手堅く3位に入賞し、1ポイント差で逆転を果たしたのでした。

Round 2. South Africa

 第3戦・西アメリカまで、フェラーリは前年モデル312Tを使用します。

Round 4. Spain

 第4戦・スペインより新型312T2が登場。ハントのマクラーレンM23ではインダクションポッドが小型化が行われます。

 レースは、1位ハント、2位ラウダでゴールしますが、ハントのマクラーレンM23はレギュレーション違反で失格となります。(車幅が広すぎる)ところがその後、その失格も取り消され、再びハントが1位に。なんらかの政治力で押し引きされたのかと勘繰りたくなる七色裁定でありました。

Round 6. Monaco

Round 8. France

 #2はラウダの盟友、クレイ・レガッツオーニ。

 1位はハント、ラウダはエンジントラブルでリタイア。

Round 9. Great Britain

 スタート直後の多重事故で赤旗・再スタートとなります。

 レースはハントが1位、ラウダが2位になるも、フェラーリからの抗議でハントは失格となります。(ハントは再スタート決定時点で、事故により自走可能な状態ではなく、再スタートする資格はなかった)

Round 10. Germany

 件の大事故は、ここニュルブルクリンクで起こります。

 元々、ラウダは、ニュルブルクリンクの危険性を強く指摘していたドライバーでありました。今回もコースに対する不安を抱えたままスタートとなりましたが、その不安は現実のものとなってしまったのです。

 事故が起こったのは、レース2周目。ラウダは、とある左コーナーで普段はのせることのない縁石にタイヤをのせ、マシンのコントロールを失います。アウトに流れたマシンは、半回転して左側面からフェンスに激突、コース中央に跳ね戻されたマシンにガソリンが引火してしまいます。


 ラウダの後ろを走っていたガイ・エドワーズ、ブレット・ランガー、ハラルド・アートル、アルトゥーロ・メルツァリオの4人が、果敢にも決死の消火・救出活動を行った事実も後世に語り継がれる話となりました。

 実際の救助シーン。

 救出されたラウダ。右端、オレンジが入ったヘルメットは、5人目エマーソン・フィッティパルディ。

 映画で再現された救助シーン。2人は、ブレット・ランガーとエマーソン・フィッティパルディでしょうか。

 勇敢にもラウダを助けたのは以下の4名

ガイ・エドワーズ(ヘスケス308D)

スポンサーを見つける才能はF1界でNo.1とか。ペントハウスがスポンサーの元祖痛車

ブレッド・ランガー(サーティースTS19)

デュポン創業者一族の御曹司

ハラルド・アートル(ヘスケス308D)

1948年生まれだから、この時28歳、この貫禄!F1引退後、ツーリングカーレースに戻り大活躍。
シュニツアーでトヨタ・セリカLBターボを駆ったことで日本で知られています。

アルトゥーロ・メルザリオ(ウィリアムズFW05)

テンガロンハットがトレードマークの熱血イタリアン

Round 13. Italy

 ラウダは、第11戦、第12戦を欠場しただけで。第13戦イタリアより復活、なんと4位で完走を果たします。(ハントはリタイア)

Round 16. Japan

 最終戦では、FISCO名物?の豪雨となりました。ラウダは、コースを2周した後、ピットに入り、そのままレースを棄権します。

 ハントは手堅く3位に入賞し、1ポイント差でラウダを逆転し、チャンプを決定します。1973年から79年までの7年間に渡るハントのF1ドライバー人生の中で、これが唯一のタイトルとなりました。

 ラウダは76年のチャンプをハントに譲るも、翌77年には再びフェラーリでチャンピオンに返り咲きます。が、フェラーリでよくあるチームとドライバーとの不和がラウダにも起こり、それを理由にラウダはフェラーリを飛び出しブラバムに移籍。78年に4位(ブラバム)、79年には14位(ブラバム)でシーズンを終えると引退を表明します。同じ年にハントも引退します。(77年・5位(マクラーレン)、78年・13位(マクラーレン)、79年・27位(ウルフ))

 しかし、ラウダは2年半の時間を空けた1982年、F1復帰します。なんと年間で5位。(マクラーレン)83年は10位に落ちるも、翌84年にはチャンプ獲得!!85年に10位でシーズンを終えると、完全引退へ。

 ラウダとハントのタイトル争いを報じる海外メディア。バンブー・フォントは正直、謎ですが、日本のイメージなんでしょう。

 主催地枠でF1グランプリを走った日本人ドライバーたち

桑島正美(DNQ)/長谷見昌弘(11位)

星野一義(リタイア)/高原敬武(9位)

 1976シーズンを走った有力F1マシンを紹介します。

Tyrrell P34

 時系列順にならんでいます。
 極初期のインダクションポッド形状。ドライバーが前タイヤの動きを見る窓が大きい。

 また窓が大きくなっている。

 スポーツカーノーズにダクトが付いている。

 最終戦の日本GP仕様。

Lotus 77

 次の78からウイングカーとなります。72で大成功したウエッジシェイプとウイングカー78をつなぐ過渡期の仕様といえましょう。

Brabam BT46

 ゴードン・マレーの初期の傑作。

Ligier JS5

 オリジナルのミッドシップ・スポーツカーJS2を1971年より生産し、そのレース仕様車で1973年からルマンに挑戦していたリジェは、75年に総合2位を得ると、翌76年からF1にターゲットを転向します。

 マトラエンジン、ジタンのスポンサーなどオール・フレンチを標榜し、参戦初年度からランキング6位を得ています。

 当初の巨大なインダクションポッドは、安全面で問題視され、新たにレギュレーションに車高制限が定められ、縮小されています。

ジェームス・ハントとバリー・シーン

 昔から、F1のハントとWGP500のバリー・シーンって、顔から性格まで似ているなあ・・・どちらもイギリス人で、自由奔放なライフスタイルを標榜、そしてハントもシーンも同じ76年のチャンプ(シーンは77年もチャンプ)・・・と思っていたのですが、実際、2人は大親友だったのです。

 車の趣味は違うようです・・・

 ジェームス・ハントの愛車、ポルシェ911 3.0RS(1974)。ハントの所有車そのものです。

 バリー・シーンの愛車は、ロールス・ロイス・シルバーシャドウIIとポルシェ928S。(バリーのロールスは中古車なんだそうです)

 意外にも、若きラウダがZ1に乗っている画像が残されていました。(1973年)