日本のMTBムーブメントを定点観測するのに良い資料は何かと思案したところ、マスメディアとして日本で初めてMTBを紹介し、初期のMTBシーンを能動的に牽引した小学館の『ビーパル』、および老舗専門誌のひとつとして日本の自転車趣味の歴史とともに歩んだという実績を持つ八重洲出版の『サイクルスポーツ』の2誌がその役にふさわしいと判断するに至り、それらを使っていろいろ書いてみたい次第。

1981年~1984年 日本のMTB黎明期

 本場USのMTB黎明期は、ジョー・ブリーズが世界初のMTBを完成した1978年初頭から、マイク・シンヤードが世界初の量産MTBを市場に流した1981年暮れまでの4年間とするならば、日本では1981年から1984年までの4年間がそれにあたると思われる。その4年間は何で始まり、何で締めくくられたのかをここで紹介したい。

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すべてはBMX改造車から始まった


 US本国ではMTBはBMXのムーブメントとは、直接的な関係はなかった(BMXパーツの流用程度はあった)が、日本においてはMTBの始まりはBMXと密接な関係にあった。

 US西海岸の動向を日本で最も早く認知していたのは、パーツの供給つながりで、サンツアーかアラヤあたりであっただろう。しかし彼らは、少なくともしばらくの間は、日本国内市場で何かしようとは思わなかったようだ。いや、機が熟すまで準備を重ねていたのかもしれないが・・・同じ頃、MTBの存在を知ると、すぐに行動に移った一個人がいた。日本に初めてMTBを紹介した(と通説になっている)故・平木康三氏である。氏は、1980年に環七沿いの東京都世田谷区代田に開店したBMX専門店「ワイルドキャット」のオーナーであった。

 平木氏がMTBを知ったのは遅くとも1981年前半と思われる。(というのも、氏は1981年の7月発売の雑誌のMTB記事に関係しているからである:後述)仕事柄、最新のBMX情報を収集する目的で本場のBMX雑誌を熱心に購読していたのではないだろうか。当時、BMX誌にMTBが紹介されることがあり、そこでMTBという存在を知ったと推測する。(USでも、スタンプジャンパーのショー・デビュー以前の時期ゆえ、MTBの存在を知るものはごくわずかであった・・・はずだ)

 なんにせよBMXに続き、MTBもじきに日本に上陸しブームになるだろうと予感した彼は、まだ日本に存在していなかったMTBというものを見よう見まねで作り上げる(でっちあげる?)ことにした。1980年に発売されたマングースの26インチBMX、コスクルーザー(Kos Kruiser)に変速機を急ごしらえで取り付けたものがそれで、MTB風BMXの域は出なかったが、とにかく車両を1台、仕立て上げたのだった。

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BMX界のスーパースターでマングースのワークスライダー、
ジェフリー・コスマラ(Jeffrey Kosmala)のシグネチャーモデル。

1981年6月 BE-PAL創刊

 そうこうしていた平木氏に順風が吹いた。アウトドア雑誌『BE-PAL(ビーパル)』の創刊(1981年6月10日)である。

 創刊号の表紙を一瞥して分かる通り、ビーパルは従来のアウトドア誌とは一線を画す編集方針を持っていた。実のところ、表紙ほど過激な内容ではなかったが。(ちなみに表紙モデルは、オスカープロモーション所属の「木下裕子(ひろこ)」)アウトドア雑誌としては後発であったが、そのライト感覚が多数派にマッチし、また小学館という資本の大きさを後ろ盾にして、ビーパルはアウトドア・ムーブメントを牽引するほど強い影響力を持つメディアに成り上がっていった。

BE-PAL 81年7月・創刊号


 話をビーパル創刊のころに戻すと、新参の同誌が意識していたのは古参のアウトドア誌でなく、当時、若者のライフスタイル・マニュアルのカリスマとして隆盛を誇っていた平凡出版(現マガジンハウス)の「ポパイ」であったことは、判型が同じであることを始め、誌面を一瞥すれば容易に読み取ることができよう。

 ビーパルは、ポパイが日本にまだ存在しないアメリカン・スポーツカルチャーとして、ジョギング、スケボー、フリスビーを発掘してきたように、なにか新鮮なネタを探していたのだろう。平木氏が作ったMTB・・・否、MTB風BMXに関心を示し、創刊号から取り上げることとなった。一人の男と一冊の雑誌の二人三脚のコラボレーションがそこから始まった。キャンプ、トレッキング、フィッシング、カヌーといった王道のアウトドア・レクリエーションと並んで、まだ海の物とも山の分からぬMTBの露出が行われた。最初は手さぐり、恐る恐るの印象を受けるが、露出が反響を呼んだのか、まもなく大胆になっていった。

 以下余談。創刊号の透けたタンクトップは、とにかく人目を引きたい一心ゆえであったろう。その乳の持ち主、木下裕子は、当時11PMのカバーガールを務めていたほどの売れっ子モデルであり、メディアを選ばず露出はあったのだが、しばしば平凡出版の雑誌(平凡パンチ)の表紙に起用されていたことは、ビーパルが木下を起用したのと無関係とも思われない・・・

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81年5月11日号 / 81年7月27日号


 嬉しいことに、彼女にとって「透け」は得意分野のようだ。

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 以下が記念すべき日本で最初にMTBが露出された記事である。まだMTB単体では記事にするには難しいとの判断がなされたのであろう。あくまで主役は「タンポポ・ハンティング」である。

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 上で木下裕子についてひとくさりした以上、日本初のMTB(もどき)にまたがったことでMTB史に名を残すことになった「速水陽子」についても言及しておかなければならないだろう。

 大阪市出身の彼女は、1960(昭和35)年8月19日生まれの当時21歳(現在55歳)、ナベプロ所属の歌手予備軍の一人だった。

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 1980年、松田聖子のデビューで火が着き、以後10数年続く空前のアイドル歌謡ブームの中、その世代よりも数歳年長であった彼女は、主流のアイドル路線を採らず(採れず)、1981年夏、同じナベプロの沢田研二にあやかり、「女ジュリー」を標榜した大人の路線で歌手デビューする。

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 アイドル歌謡とは一線を画した「い・か・が」、「やっぱり」のシングル2曲を立て続けにリリース後、同じ年の秋には、早くもファースト(かつラスト)アルバム「センチメンタル倶楽部」を世に出す・・・歌手としての実力には一定の評価があったものの、アイドル全盛の中、泣かず飛ばず。(歌手デビュー直前には、著名なTVドラマ、「野々村病院物語」(1981年5月~・TBS)に看護婦役で出演していたという記録もある。ナベプロも売り出しに力を入れていたのだろう)

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 実は、彼女も平凡パンチにからみがあるといえば、あるのである。まだ(おそらく)本名の「初田順子」を名乗っていた彼女は、「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」というニッポン放送の深夜ラジオ番組で、松田聖子(!)、戸田裕子とともに、1979年12月から1982年12月の番組終了まで、7代目パンチガールの一人としてパーソナリティを務めていた。この番組のスポンサーは平凡出版であり、言うまでもなく、番組名のパンチは「平凡パンチ」から来ている。これは偶然なのだろうか?(笑)

 ビーパルのモデルは、「大」小学館の雑誌ということで、どんな記事でも知名度を上げる足しになる、との判断で受けたのだと思われる。コスクルーザーを担いだりして、かなり頑張っているのではないだろうか。

 MTB記事部分を以下に抜粋する。

 「大人用BMXのMt.バイク」というかなり苦しい説明。一方、MTBは(カリフォルニアというおおざっぱな括りではなく)「マリンカウンティで生まれた」と、かなり深めな情報も正しくなされている。

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 これが、26インチBMXがMTBを自称する唯一かつ全ての根拠となるシマノの600(現在のアルテグラに相当するグレード)リアディレイラー。トラックエンドにディレーラーハンガーをボルトオンで後付けし、ディレイラーを装着している。変速比は、43×14-28の5速。

 本場USのMTBでは圧倒的にサンツアー優勢の時代で、シマノを使うにしてもツーリング向けであるディオーレが選ばれることがほとんどだった中、ロード用パーツから選択したのは異例のことだと思う。

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 オリジナルのコス・クルーザーはこの通りトラックエンドを持つ。

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 同じ26インチBMXである「シュウイン・キングスティング」もトラックエンドを持つが・・・

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 メーカー自身の手によって、キングスティングにリアディレイラーを取り付けると「キングスティング5」になるが、エンド形状は変速機の装着に適したドロップエンドに作り直されている。さすが、かつてのUS No.1メーカーの仕事、手抜きはない。

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 創刊号に続き、創刊2号にもMTB記事が掲載された。

BE-PAL 81年8月・通巻2号


 タンポポ・ハント同様、「MTB」という「ハード」よりも、「荒野に集まる」という「ソフト」の方に記事の軸足が置かれている。MTBには、まだ単独でメインを張れるほどのパワーはなかったのである。

 文中、「子供のモトクロス競技用に開発された自転車BMXを、さらに、野山を駆けめぐるワイルドなお楽しみ自転車にしたのが、このマウンテンバイクだ」との苦しい説明・・・本当か?確かにこの変速機付きコスクルーザーはそうなんだけど(笑)

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 ここでビーパルでのMTBの露出は一旦失速し、1年以上空白が空く。次にMTBが誌面に再登場するのは、1982年11月号(通巻17号)となる1982年10月号(通巻16号)となる。

 日本におけるMTBブームの到来は80年代末まで待たれる。そのブームは、アウトドア志向の風潮も追い風となって、社会現象と言っていい規模にまで膨らんだ。日本中の山に・・・というよりむしろ、町にMTBが溢れた。MTBブームは全世界的な流れであったから、日本においても平木氏の着眼やビーパルの影響力が無くても広がった必然の流れであったかもしれない。なんにせよ、平木氏もビーパルも一番乗りとしての名誉とその後の功績を日本のMTB史に残すことになったのである。

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 自転車専門誌サイクルスポーツにMTBの記事が載るのは、ビーパルに初登場した一年後、1982年のことである。まだまだ自転車マニアの主流は、70年代から続くツーリング、キャンピングの時代であった。(誌面的には、ヨーロッパで大メジャーなロードレースにも興味を持ってもらいたい感が伝わってくる。BMXは・・・自転車総合誌として無視はできない、といったところ。箸休め的扱い)

http://www.cyclesports.jp/magazine/content/2010/1004/indexから引用する。『依然としてサイクリングは人気だが、ツールやヨーロッパのプロ選手を紹 介する記事なども増える。5月号で は、「つり専用車を作る!」という 異色のロードバイクの改造企画も登 場。そして、アメリカでブームだっ たMTBも誌面初登場。』以下で現誌を確認したい。

 なお、平木氏のサイスポ初登場は82年1月号で、MTB関連ではなく「スポーツニュースBMX」のレポーターとして。「次号から、私がこのページを担当しま~す」とあくまで明るい。

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サイクルスポーツ 82年1月号/2月号

82年8月 MTBがサイクルスポーツ誌面に初登場


 サイクルスポーツでMTBが初登場するのが、この82年8月号である。仕掛け人は、ビーパルと同じく平木氏であるが、ビーパルでの「MTBもどき」とは異なり、正真正銘のMTBが誌面に登場している。そう、世界初の量産MTB、スペシャライズドのスタンプジャンパーである。(国産初の量産MTB、アラヤのマディフォックスは、まだデビューしていない)

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 ついに日本初公開、初代スタンプジャンパー!といっても日本で作られているのだが。

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 カシワ号トムキャット。シクロウネ製。カシワ号の名前は千葉県柏市の工房所在地が由来。シクロウネは日本のMTB黎明期から、3連勝ブランドでMTBを精力的に世に出していたが、このカシワ号は全く無名である。もしや、どこかのメーカーに依頼されて作ったプロトタイプなのだろうか?

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 平木氏作の「マウンテン仕様 = リア5速」のコスクルーザー。カラーで初公開。

 この時代、MTB = ホリゾンタルフレーム、BMX = スローピングフレーム、で区別することができるが、後にMTBでもスローピングフレームが当たり前になることを鑑みると、このマウンテン仕様コスクルーザー、先見の明があったといえるのではないだろうか。

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 オリジナルのコスクルーザー。マウンテン仕様との差額は7,000円。

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 「エスイ」とはなんぞや?江水さんが作ったBMXか?否、「SE BIKES」のこと。マングースに並ぶ老舗で現存するBMXブランドであるが、これは誤植だろうか?あるいは、当時はエスイと表記していたのだろうか?

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BE-PAL 82年10月・通巻16号
 ビーパル誌の第3弾は14か月を空けての登場であった。今回MTBは、アウトドア・レクリエーションの「添え物」ではなく、単体で主役として扱われている。

BE-PAL 82年11月・通巻17号
 今号では正しく、MTBの先祖はBMXではなく、クランカーであることを説明している。素晴らしい!

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 初のMTBの製作者は「ジョー・グリーズ」とあるのはご愛敬。さらに「MTBの登場が1976年」という年号は微妙だ。世界初のMTBとなるブリーザー・ファーストシリーズの製作が開始されたのが1977年末で、完成したのは1978年であることは今の定説である。まあ、情報が極端に少なかった時代、この程度のずれは無理もないところか。

 それよりなにより、MTBのイラストが、例の5速コスクルーザーのままであることが一番の問題であろう。

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サイクルスポーツ 82年12月号
 サイスポMTB記事、第2弾。クロカンレーサー、MTB、BMXを比較している。乗り手のテクの差か、MTBもBMXもクロカンレーサーの前に一歩も二歩も落ちる扱いに終わっている。

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 誰もが知っているスピルバーグの大々大ヒット映画「E.T.」が、BMXに絡めて紹介されている。

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 ついに誌面に初登場!アラヤによる日本初の量産MTB。なんと、名称は「マディフォックス」ではなく「パスハンター」とある。(マディフォックスの英国輸出仕様、「パスファインダー」とも異なる名前だが、「ファインダー」を「ハンター」と誤記してしまったのだろうか?)

 細かい突っ込みとなるが、「ダイアコンペ980」はレバーではなく、カンチレバーブレーキ本体。(レバーは「280」と思われる)

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 上で紹介した通り、サイスポ誌はBMXがらみで、世界的大ヒット映画「E.T.」を紹介しているが、まだ公開前ということで淡々としたものだ。 E.T. については、当時の老若男女、知らない者などいないほどのブームであった。そこでBMXが準主役級の扱いを受けたが、残念ながら、日本においては、少々不発気味であったBMX人気の起爆剤とはならなかった。

確かに、当時、中学一年生だった私も、冒頭のピザ・デリバリー同様、派手なBMXアクションも自分の日常とは、まるで接点はない映画の中の絵空事、と受け流して観ていたことを思い出す。ましてや、そのBMXが日本のメーカーのものであったことなど、話題にする以前に、その事実すら耳に届いていなかった。(ただし、ピザ・デリバリーは日本にはまだ存在しなかった文化だが、これをきっかけに日本にも浸透していくことになる)

 一方、BMXがはるかに身近であったUSでは、E.T.の重要なシーンでBMXが使われたことの影響の大きさは、計り知れないものがあった。BMX PLUS! 誌1982年10月号で詳細な特集が組まれている。

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 レポートは映画の中でスタント役を果たした、未だ若き頃のBMXレジェンド、ボブ・ハローによって書かれている。(彼は、後にハローバイクスを創設する)

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 ボブ・ハローはイラストレーターとしてもよく知られていた。(右のページのイラストはボブによる)

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 「BMXのクワハラ」の世界的成功の立役者、ハーウィ・コーエン氏についてのコラムがある。劇中車が日本製であったことは全く隠されていない。というか、むしろ積極的に明らかにされている。

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 この年のメインは、なんといっても、件の平木氏一行が、日本人として初参加した「ファットタイヤウイーク(パールパスツアー)」の報告記事である。ビーパルのスポンサードがあったようだが、あの時代の本場・本流のMTB文化に触れることができたという掛け替えのない経験が、どれほど日本のMTB史において意味、意義があったかは、おそらく参加した本人たちにも正しく理解できていなかったことだと思う。

 パールパスツーは9月に行われるため、雑誌掲載はその2カ月後の12月号となる。それまでの「露払い」というべき記事をご紹介しよう。

サイクルスポーツ 83年2月号
 70年代末の少年たちに流行ったジュニアスポーツ車をMTBに改造するという記事。サイスポお得意の(ちょっと貧乏くさい)DIYなのだが、MTBの成り立ちがクランカーであったことを鑑みると、ある意味、MTBの精神性を正しく継承しているといえるのかも?

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 とはいえ、安普請のサイドプルブレーキにコッタードクランクは少々、悲しい。こんなの誰が乗るんだろう?MTBとして重要なオフロード走破性は全く考慮されていない。日本最初の、いわゆる「MTBルック車」になるのかも。

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BE-PAL 83年4月・通巻22号
 サイスポの泥臭さに対し、あくまでスタイリッシュなのがビーパル。(とはいえ、今の目で見てしまうと、ビーパルも苦しいものがあるが・・・逆にサイスポのダサさは一周回って「普遍性」すら感じられるのは皮肉だ)

 「マディ」ならぬ、「マビーフォックス」は「輸出専用車を日本人向けサイズで発売」とある。本当か?もう一台は平木氏のショップ・ブランド車、「ワイルドキャット・フリーウィル」。フリーウィルのフレームサイズは530㎜のみの設定であるが、平均的日本人には大きすぎるように思われる。当時はUS向けMTBを手本としていたためか、どのメーカーでも総じてフレームサイズが大きめの傾向にあった。

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 このページの密度は高い。

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 チャーリー・カニンガムとマイク・シンヤードの紹介内容の正確さとその絶妙な対比は、今の目で見ても素晴らしい。1983年前半の記事と考えると、なおさらその輝きは増す。(さすがマエダ工業が提供したネタだ!また、日本製パーツの性能をやたら持ち上げているが、マエダ工業へのリップサービスだろうか?)

 モブ扱いになっている右の写真のダウンヒルレーサーは「ゲーリー・フィッシャー」と思われる。左の写真の左端3人は「コスキ3兄弟」であろう。

 1983年初頭には、すでにビアンキがMTBを試作、発表していることも特記しておきたい。(市販は翌84年から始まる)日本人の持つイメージとは異なり、ビアンキはBMXやMTBに積極的なブランドであった。ただし、この時代のビアンキは、かつてイタリアに存在した製造業者ではなく、身売り後のビアンキである。MTBはビアンキUSA主導で開発が行われた。

サイクルスポーツ 83年4月号
 ついにサンツアーとシマノのMTB専用コンポーネントグループがついにショー公開される!!

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サイクルスポーツ 83年6月増刊号
 毎年恒例のカタログ本だがMTB関連の掲載は、まだ一切ない。ただし、この吉貝製MTB用ブレーキとアラヤ・マディフォックス26DX単体のMTB関連広告が2点のみ存在した。吉貝(ダイアコンペ)の280、980は初期のMTBパーツにおけるキーワードである。

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サイクルスポーツ 83年7月号
 USであれほどのブームとなったBMXが日本では不発に終わった事例を踏まえてのことであろう。MTBに対し、「自転車業界内でもブームになるかどうかで、意見は真っぷたつ。いわく、「きわめて有望だ」「日本の風土になじまない」などなど。」とあるのは、今となっては微笑ましい。

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サイクルスポーツ 83年11月号
 保守的なヨーロッパ(フランス)のショーで、複数のメーカーが量産MTBをデビューさせたという記事。USの2年後(1981年スタンプジャンパー)、日本の1年後(1982年マディフォックス)にあたる。

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サイクルスポーツ 83年11月号
 世にMTBというものがあるようだが、どこでどう乗ればいいのか分からない・・・という声に応じた企画であろうか?レポートから、まだMTBというものを100%推薦できない疑心暗な思いが残っていることが伝わってくる。

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サイクルスポーツ 83年12月号
 9/23~26にラスベガスで行われたショーのレポート。「なんといってもMTBがおもしろい!」といいながらも誌面に全然レポートが挙がっていないのは悲しい。

 文中「このショー、新車発売の時期とずれているため」とあるが、通例、前年秋(10月初頭)が翌年モデルの発表時期であるので、まさにドンピシャのタイミングと思われるのだが・・・(ラスベガスショーはUSの重要な自転車見本市のひとつ)この頃、日本のメーカーは、国内ではまだ当年モデルを当年初頭に発表していたゆえの誤解ではないだろうか?

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1983年9月 ファットタイヤウイーク参加

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ついにこの年最大のイベントのレポート記事をご紹介できるに至った。

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これがBMX & MTBだ!

1985(昭和60)年9月初版。平木康三・著

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 『世界的に有名なライダーたちが大集合』とサラッとコメントしているが、なかなか貴重なショットではないだろうか。左の写真、真中の白いカスクにドロップハンドルのバイクに乗っているのが、チャーリー・カニンガム、一番右端のひげ&サングラスはトム・リッチー、右の写真、真中の白フレームのバイクはゲーリー・フィッシャーだろう。(具体的に人名を上げていないのは、当時の子供には・・・子供どころか大人にも分からないだろうという配慮であろう)

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(1984年につづく)